PeachParkBoard(桃園板)
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メッセージ

[439] 2019/6/16 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/06/22(Sat) 19:29
マタイ21:33〜46 「期待される実り」

主イエスは、ご自分に憎しみを募らせる祭司長たちに、ぶどう園と農夫のたとえを話された。収穫に必要な環境を作り、農夫たちに委ねるぶどう園の主人。これはイザヤ書5章にある、イスラエルによい実を期待する神の姿である。
ところが、ぶどう園を任された農夫たちは、収穫の時期が来ても、主人が遣わすしもべたちに狼藉を働き、収穫の分け前を主人に渡すのを拒む。主人は「自分の愛する息子なら」と送るが、彼らは息子を殺し、相続を奪おうとするのである。本来、民の指導者は神からその務めを委ねられたものであるのに、自分たちの権威を守ろうとして主イエスを殺そうとする姿を示しているのである。
こんな農夫たちを、主人は厳しく裁く。では私たちはどうか。神から委ねられている自分の人生において、神の喜ぶ実を結べているだろうか。むしろ神の言葉を捨ててはいないだろうか。主は、詩編118編を引用し、人々から捨てられるご自身が、新しい神の家の礎になることを宣言された。私たちの人生も、この方を土台とする歩みへと導かれるように願う。

[438] 2019/6/9 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/06/22(Sat) 19:27
マタイ21:28〜32 「父の願い」

先頃翻訳された新改訳2017では、今日の箇所の兄と弟の発言が入れ替わっている。翻訳には研究の発展が必要だとまずは受けとめよう。たとえ話自体はそれほど難しい内容ではない。しかし、単に兄の無言実行と、弟の有限不実行を対比させ、口先だけでなく実行することが大事、というような単純な道徳律が語られているわけではない。
そもそもこの兄と弟は、父の命令に対してどちらも拒み、背いたことにおいては変わりがない。どちらがマシな行動か、ということではないのである。その意味で私たち人間は、神の前にだれがマシか、ではなく、全て捨てられるべき罪人なのである。しかし主は、取税人や遊女たちが神の国に入れるのは、信じて思い直したことだといわれた。父の願いは、ぶどう園でどれだけ働くか、ではなく、信仰と悔い改めであった。
主は「先に」とあえて言われる。目の前の祭司長、長老たちも神の国に入ることを期待しておられる愛を覚えよう。私たちのうちにある罪に気づかせ、信仰による義認によって、私たちをきよめてくださる方である聖霊に、ますます満たされる者となれるように。

[437] 2019/6/2 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/06/08(Sat) 19:14
マタイ21:23〜27 「まことの権威者」

目や足の不自由な人、幼子たちを神殿に招いて宮きよめをした後、人々を教える主イエスへ、祭司長、長老たちがその権威の出所を尋ねにやって来る。サンヘドリンという当時の宗教と政治の権威を担っていた議会のメンバーとして、イエスの行動を看過できなかったということだろう。
それに対する主の答は、ヨハネのバプテスマが天からのものか人からのものか、と言う逆質問だった。これは主が彼らの質問を煙に巻こうとしたのではない。ヨハネの出現はイザヤ書の預言の成就である。ならば「天から」と彼らは答えなければならなかった。けれどもそうするとそのヨハネが指し示したメシアが主イエスのことであると認める事になる。しかし人からの評判を気にして「人から」とも答えられない彼らだった。
つまり彼らが自分にあると思っていた権威はまことにあやふやなものだったのである。主は真の天からの権威者として、私たちの罪や歪みを正したもう。その時に私たちは主の御手を受け入れられるだろうか。ぜひ造り変えられ、世に主の恵みを証するものとなりたい。

[436] 2019/5/26 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/06/01(Sat) 14:25
マタイ21:18〜22 「主の喜ばれる実」

30周年記念礼拝を経て、改めて主からのチャレンジを頂きたい。
主イエスの地上での生涯があと僅かという時に起きた出来事だが、全体的にわかりにくい内容である。主は空腹のために、季節外れで実のないいちじくをのろったのだろうか。また、信じて祈ればいちじくの木も枯れさせる力が得られると言いたかったのだろうか。
しかし、いちじくはイスラエルを象徴する植物である。そのいちじくが、豊かな実を実らせることを主は期待しておられた。その事はホセア書、エレミヤ書、またルカの福音書等が記している。しかし、葉の他に、芽吹く実さえも何もなかったということは、イスラエルが主の期待に全く応えていなかった事をあらわしているのである。私たちはどうだろうか。
主が期待しておられる実とはなんだろうか。それは、民族や人種によらず、神を信じる信仰である。しかも人間には全く不可能に見える事でも、全能の神にならできる、と信じることである。さらに言えば、パウロは山を動かすほどの信仰も、愛がなければむなしいと記した。私たちの信じて祈る祈りを聞いてくださるのは、神の愛のゆえである。私たちもこの神の愛を信じ、実りを求めて行こう。

[435] 2019/5/12 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/05/14(Tue) 01:04
マタイ21:12〜17 「祈りの家にふさわしいか」

ユダヤ教三大祭りのひとつ過越の祭を目前に控えた月曜日。ろばの子に乗ってエルサレムに入ってこられた主の、非常にはげしい姿である。当時神殿でささげる献金は、一般に流通していた異邦人の通貨を献金用に両替せねばならなかった。また、いけにえの家畜も全国から連れて来る労力もあって、現地調達のための商売が繁盛していた。
それを追い出したという事は、富の不正なむさぼりも主は怒られたのであろう。が、買う方も追い出しているところを見ると、理由はそれだけではない。その後主は礼拝の場に参加できなかった身体の不自由な人を宮の中でいやしておられる。また、子どもたちの賛美を見、伝統を傷つけられたと受けとめた祭司長・律法学者たちは怒る。
それに対して主は、子どもたちの賛美を、詩篇8:2を引用し、ご自分に向けられたものとして受けとめられた。これは、主をほめたたえる賛美を受けるべきなのは自分だと宣言したに等しい。ご自身の十字架でいけにえが不要になり、本来ふさわしい者でない者が礼拝に招かれることを示したのである。今年30周年の記念の時、礼拝がかくもあわれみ深いものであることを、改めて覚え歩んでいきたい。

[434] 2019/5/5 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/05/14(Tue) 01:03
マタイ21:1〜11 「まことの王を迎えよ」

時まさしく天皇の代替わりの時、真の王のエルサレム入城から教えられる。ガリラヤを出発した主イエスと弟子たちは、エルサレム近くのベテパゲに到着する。主は二人の弟子にロバの子を村から引いてくるように命じられた。弟子たちにとっては不可解な命令だったに違いない。けれども彼らはお互い心強く主にしたがったのではないだろうか。私たちも主に従う事に躊躇するようなとき、ともに仲間がいる事に感謝したい。
イザヤ書とゼカリヤ書には、救い主の到来が預言されている。そこには世のなかの、武力や周りを圧倒する権威をまとう軍馬に乗って、ではなく、柔和で平和をまとう子ろばに乗って来られる王が描かれている。そんな救い主として主は来られたのである。
主がエルサレムに来られたのは、すべての罪の贖いの代価として、罪人にご自分のいのちを完全に与え尽くすためであった。群衆たちは世の権威を蹴散らす事を期待していたのかもしれない。しかし、彼らは一週間もしないうちに主を十字架においやる。私たちは真の王の王、主の主であられるイエス・キリストを迎えよう。

[433] 2019/4/21 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/05/14(Tue) 01:01
マタイ20:29〜34 「復活のいのちがもたらす光」

世の中は新元号だの新紙幣だのかまびすしいが、私たちは主のもたらす新しさを心に刻んでいきたい。
エルサレムへの旅の終盤、主は多くの群衆とともにエリコを出た所でふたりの盲人と出会う。他の福音書の記録ではひとりしか登場しない。省略があったのかもしれないが、あえてマタイがふたりと記すのは、同じ痛みを抱えた者同士でしか支え合えなかった絶望を描いているのかもしれない。
そんな彼らは、主イエスが通られるのを聞くと必死にあわれみを求める。遮られても、あきらめず叫ぶ彼らの信仰は見習うべきところがある。その信仰に足を止める主との受け答えの中で、ストレートに願いを訴える彼らは、自分を徹底的に低くしていたことがわかる。
彼らがあけて欲しいと願った「目」と、主が触れられた「目」はギリシャ語が異なる。彼らは肉体的ないやしを願ったが、主は彼らをあわれみ、加えて霊の目を開かれた。そして彼らは、主について行く新しい人生を歩み始めたのである。私たちも主の十字架と復活によって新しくされた。主のもたらす新しさとともに、主に従って行こう。

[432] 2019/4/14 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/05/14(Tue) 01:00
マタイ20:17〜28 「主が仕えるように」

人が人の上に立ちたいというのは、抗いがたい欲望なのではないだろうか。主イエスが歩むエルサレムへの道は、回りの弟子たちからすれば、都上り、つまり主はいよいよ表舞台に打って出ようとしているのではないか、という道に見えたかも知れない。それを見越してか主は計三度目となる受難の予告をなさった。主は、人が安易に期待するような地上の権力者とは違うということである。
しかし、ヤコブとヨハネの母が、将来の息子たちの地位について的外れな願いを主に訴える。確かに彼らは12弟子の中でも比較的主に重用されている弟子であったが、主の杯が飲めるかと主は問われた。彼らはできます、と断言する。しかし、みこころを完全に受け入れること、しかもそれが自分の決意や自分の行いによらず、徹底的に主への信頼がなければならないのである。
彼らの抜け駆けについて、他の弟子たちも怒る。けれども彼らに向かって主は、ご自分が贖いのためにいのちを差し出し人々に仕えるのと同じように、みなのしもべになれ、と命じられた。私たちも主の愛に従って、主のように人々に仕える歩みに踏み出そう。

[431] 2019/4/7 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/05/14(Tue) 00:57
マタイ20:1〜16 「最後の人にも同じように」

世の中の不景気が続き、不公平感から来る人々の不満が増大していないだろうか。そこには妬みと憎しみが生まれかねない危険がある。
主は天の御国を、ぶどう園で働く人を雇いに出かける主人にたとえられた。雨期の前の短いぶどうの収穫期には、こうして市場で日雇い労働者を雇い集めるのは普通だったようである。しかし、一日一デナリの約束をして早朝から働いていた人たちは、夕方終わりかけの一時間しか働かなかった者たちと同じ報酬だったことに不満を持つ。
彼らは、もっともらえると思った期待が外れると、今度はちょっとしか働かなかった者の報酬を下げるべきではと不満を漏らす。例えば私たちも、奉仕や献金をほぼしなくても、召される直前に救われる人を見るとき、うらやましく思うだろうか。しかしそういう人は、報いが約束されている安心感と、自分に目を留めて声をかけてくださった恵みの主への喜びを忘れているのではないだろうか。まさにそれが、信じて歩むことの報いであって、奉仕や献金は永遠のいのちという報いには一切影響しない。私たちは邪悪な目を捨て、友と呼んで下さる主に信頼して従って行く者でありたい。

[430] 2019/3/31 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/05/14(Tue) 00:56
マタイ19:13〜30 「永遠のいのちを得るために」

十字架への道の途中、子どもたちが祝福を受けに主のもとに連れて来られる。弟子たちはそれをとどめたが、主は、天の御国は彼らのような者のものなのだと言われ、祝福をされた。御国に子どもたちがふさわしいのは、純真無垢だからではない。自力よりも、他者に完全に依存し生きることに抵抗がないからである。
その後主のもとに来た青年は、永遠のいのちのためにどんな良いことをすればいいのか、と質問する。良い方は神のみであると気づかせようとする主に、彼は、戒めはきちんと守っていると主張する。永遠のいのちが、善行の報酬であると彼は考えているのだ。神に全的に依存し、主について行くことでしか得られない恵みを教える主だったが、彼は主の前を去ってしまった。
確かに、多くを持っていると思っている者ほど、神よりも自分の持ち物に頼るプライドが強いだろう。しかし、人にはできないことが神にはできる。ペテロの損得勘定が働く表明であっても、主は彼の信頼を評価された。人の格好悪さが神を喜ばせ、人をいやす証とさえなることを憶え、主に信頼し主に従って行こう。

[429] 2019/3/24 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/05/14(Tue) 00:54
マタイ19:1〜12 「ふたりではなく、ひとり」

社会の最小単位は家族であり、さらにその基本は夫婦である。それゆえ聖書は結婚を重んじてきた。主は19章に入り、ガリラヤからユダヤへ向かわれる。それは十字架への道であり、その途中で多くの人のいやしのわざを行われた。まさにイザヤ53章が預言するとおり、主の十字架は、他者への非寛容に縛られる私たちをいやすのである。
その時パリサイ人は、主に離婚の是非について質問する。その地がバプテスマのヨハネ処刑の地であり、ユダヤ教内でも論争を呼ぶテーマでもあり、主の人気を貶めようとの算段だったのだろう。しかし主は、離婚の是非ではなく、結婚の祝福を説く。三位一体の神に似せて造られた私たちが、互いに愛することによってあずかる祝福である。この結婚関係にみられる希望が、愛と赦しによって、教会や社会における人間関係の幸いにもつながると主は期待しておられるのではないだろうか。
中には独身に召されている人もいる。しかし、大事な事はそれぞれの召しに従う事であろう。いずれにしても、愛と赦しの十字架がもたらすいやしを、家庭で、教会で、社会で証していこう。

[428] 2019/3/17 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/05/14(Tue) 00:52
マタイ18:21〜35 「御国の王に赦されたなら」

天皇の代替わりにあたり、恩赦が検討されているらしいが、評判はあまり良くないと聞く。確かに人を赦すのは難しい。ペテロは主に、赦しについてユダヤ教の基準の「三度まで」を越えた「七度まで」の基準はどうかと質問する。しかし主はそれを遥かに超えて、「七度を七十倍するまで」つまりほぼ制限なく赦すように言われた。
主はたとえ話のなかで、しもべの膨大な借金を免除した王を登場させる。謝罪もせず、不誠実な弁解をするしもべだったが、しかし王は返済の義務を彼に負わせず解放する。王がしたのは、彼の提案を許可する「許し」ではなく、あわれみのゆえの「赦し」だった。
ところがしもべは仲間にわずかばかりの借金の返済を強要する。しかも仲間の誠実な返答にも関わらず。王はしもべを激しく怒った。それは、お前も100デナリをチャラにしろ、ではなく、仲間の言葉さえも受け入れなかったことへの怒りではないだろうか。私たちも神に対して莫大な負債を、御子の血の犠牲をもって免除された。だとしたら兄弟姉妹が罪の指摘を聞き入れたなら、何度でも赦すべきではないか。それが教会に、世界に平和を築き上げる事になるのだから。

[427] 2019/3/10 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/05/14(Tue) 00:51
マタイ18:15〜20 「御国を現す教会」

神の家族である教会の兄弟姉妹の中に罪があったとき、信者同士だからこそ厳しく、過剰に裁きあいやすいかもしれない。主はその場合、まず二人だけで指摘し、彼を取り戻すよう願われる。たとえ主が厳しく断じた罪を犯した者であっても、主にとっては群れから迷い出た羊であり、その回復は父の御心だからである。
それが聞き入れられない場合でも、丁寧に客観的な証人の証言などで、その罪が事実かどうか確認し、それでも悔い改めを拒むなら教会へ告げよと言われ、なお聞かないなら、取税人や異邦人と見なすようにといわれた。これは追放などではなく、主の救いと恵みをまだ信じていない者として接しなさい、という意味であろう。教会で重んじられるべき戒規も、あくまでその人の悔い改めと信仰と交わりの回復のために行われるものである。
教会は、地上で御国を現す群れである。それゆえ大きくとも、あるいは二人、三人という少人数であっても、御名のために集まり祈る群れを主は重要な教会と見なされ、臨在の恵みを賜りたもう。30周年を迎えた私たちも、地上でますます御国を証する群れとなろう。

[426] 2019/3/3 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/05/14(Tue) 00:50
マタイ18:7〜14 「小さな迷う羊をも」

だれが天の御国で偉いのか、という弟子の質問の中で、主は、小さい者をつまずかせる者を呪われる。つまずきとは、スキャンダルの語源となった言葉が使われていて、もともとは鳥獣を捕まえるワナの意味である。それ自体は決して大きなものではないかも知れないが、その事が原因で信仰生活を全うする事ができなくなるようなほどの結果をもたらすゆえに、主も厳しく警告なさっているのだろう。
しかし、だからと言って人との関わりを萎縮することに解決はない。御使いは、主に遣わされて一人一人の救いのために仕える霊である。主はそのようにして、小さい者たちの救いを導いておられるのだとしたら、私たちも神を見上げ、神がその人をどう見ておられるのかを知らなければならない。主はそれをせずに人を見下したりつまずかせる者に、怒りを向けられるのである。
神が人を愛する愛は、決して損得勘定で計れるようなものではない。目の前にいる一人を愛し、迷ったらどこまでも探し見つけ出す愛である。この愛に代わるものはない。主イエスの十字架がそのあらわれだったことを憶え、今日の聖餐式にも感謝して与ろう。

[425] 2019/2/24 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/05/14(Tue) 00:49
マタイ18:1〜6 「傲慢からの自由」

C・S・ルイスは、高慢こそ罪の根本だといった。弟子たちの「御国ではだれが偉いのか」と尋ねる質問も傲慢と無縁ではないだろう。弟子たちは、これまでの経緯のなかで、主からの評価を気にしたのではないか。しかし主は、そもそもだれが偉いかという以前に、子どものように自分を低くする者でなければ、天の御国には入れないといわれた。天の御国は自分ではなく神を王とすることであるなら、当然のことである。結局人は神の王座を奪いたいのだ。
しかし主イエスは、神のあり方を自ら捨てられた。これ以上の自由があるだろうか。逆に言えば、神でないのに神の座に座り続けようとすることこそ、不自由である。そして、真に自由を手にした人は、あらゆる人を、主のゆえに受け入れる事ができるだろう。30周年を迎える教会も、不要な伝統や価値観に捕らわれない注意が必要ではないだろうか。
石臼で湖に沈められた方がましというくだりでは、どちらの立場から読むかで恐れか平安か違うだろう。小さい者に対する主の絶対的な愛に信頼し、傲慢の罪から自由でありたいと願う。

[424] 2019/2/17 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/05/14(Tue) 00:47
マタイ17:24〜27 「信仰告白に生きる道」

当時のユダヤ人成人男性は、一年に一度、2ドラクマ(二日分の日給にあたる)を神殿に納入する習慣があった。ローマに普段納める税金とは違い、納めるのを渋れば、愛国心を問われるような性質のものであった。それゆえ、ペテロは「あなたの師は納めないのか」と問われて、主に確かめることもなく「納めます」と即答してしまう。私たちも主の御心より人の顔色を見てしまうことはないだろうか。
そんなペテロに対し、主のほうから語りかけられる。本来、王の子どもたちは、王に対する税金や貢を払う義務からは完全に自由であろう。ペテロが数日前告白した通りだとすれば、神の御子である主イエスは、宮の納入金を納める義務はないはずである。自らの信仰告白を脇に置いて、納めます、と先走ってしまったペテロは少なからず後悔したにちがいない。
しかし主はその事を非難するよりも、ペテロに奇跡を見せてくださる。主にしては珍しいタイプの奇跡である。しかし、信仰告白をもって主に従う弟子の道は、驚くような主の備えに生きる、本来自由で楽しい道ではないだろうか。今週もそんな歩みであるように。

[423] 2019/2/10 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/05/14(Tue) 00:45
マタイ17:14〜23 「主に応える弟子」

子どもたちが社会や家庭の中で抱えている痛みや傷を思う時に、私たちの無力さを感じる事があるのではないだろうか。
山上の変貌の後、残っていた弟子たちのもとに、息子をいやしてもらいたいと父親が願いに来た。しかし、弟子たちは子どもたちを直すことができなかったという。父にとってのひとり息子は、どれだけ大切に思われ、どれだけ必死にいやしを願われただろう。
しかし、弟子たちに直すことができなかったことを聞かれた主は、失望に聞こえることばを語られる。なぜなら弟子たちにはいやしの権威がすでに与えられていたからである。私たちも、問題を抱えた人々の求めに無頓着であってはならない。むしろ信仰と祈りによって、主の弟子として人々の問題と悩みに向き合い受け止めなければならない。自分には荷が重いと思うかもしれないが、教会にからしだねほどの信仰でもあるかどうかが問われる。
弟子の不信仰にもかかわらず主は、それでもその子をいやしてくださった。主のもとに連れて行くときに、本当の解決が与えられる。その解決は最終的には十字架の贖いによるものである。

[422] 2019/2/3 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/05/14(Tue) 00:44
マタイ17:1〜13 「栄光を垣間見て」

主の、山上の変貌と呼ばれる場面。これは、ペテロの信仰告白に続く受難と復活の予告、そして主の弟子もまた十字架の道を歩むべきとのみことばの続きである。そこで主は、神の御子としてもともとの姿である光輝く栄光の姿をペテロらに見せ、そしてご自分こそ律法と預言書、つまり旧約聖書全体が証するキリストであると証されたのである。苦難の弟子の道に恐れた弟子たちにとって、大きな励まし、慰めとなったにちがいない。
ところがペテロは、それを記念して幕屋の建設を申し出た。それは、今目の前で体験した出来事をずっと地上にとどめておきたいと思ったからではないだろうか。私たちも主の素晴らしさや栄光を体験し励まされることがある。が、しかし自身の体験よりも、主のみことばと、それが指し示す希望にこそより頼むべきであろう。
主の復活するときまでこの事を秘めておくように言われた。それは弟子たちの目を未来の永遠の希望に目を向けるようにされるためであり、エリヤの再来にこだわる律法学者ではなく、ヨハネも証したキリストに目を向けるようにとの御心だったのではないだろうか。

[421] 2019/1/27 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/05/14(Tue) 00:43
マタイ16:24〜28 「主に従う者の歩み」

エルサレムを通るヴィア・ドロローサだが、私たちにとっては日々の信仰生活こそ、十字架への道であるべきだろう。主は、弟子たち、つまりイエスを主と告白する者が歩むべき道を示された。それは、自分を捨て、十字架を自ら負う道である。主と同じように、苦難の道であっても、自分を主張する事を放棄し、従うことである。
これをすぐに「自分には無理」と言っていいだろうか。確かに目の前の苦難に捕らわれがちな私たちにとって簡単ではないが、しかしその道の先には、まことのいのちがある、と言う約束を見るべきであろう。自分のいのちを救おうとこだわることで人はいのちを失い、主イエスのために生きるときに、まことのいのちを得るからである。
自分のいのちを買い取れない私たちは、どのようにしてまことのいのちを得るのか。それは、主イエス・キリストが罪人のためにご自分のいのちを捨て、十字架に自らかかってくださったからこそ与えられたものである。その主イエスのあわれみを思い起こし、「主イエスのため」になら、と思う時に、自分も自分を捨てて主に従えるのではないだろうか。

[420] 2019/1/20 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/05/14(Tue) 00:41
マタイ16:21〜23 「キリストの救い」

あなたは生ける神の御子キリストですと、神が与えた素晴らしい信仰告白をしたペテロであった。そして主はそれを受けて、受難と復活を弟子たちに語り始められる。ペテロや他の弟子たちに、正しくキリストを理解するよう主は教えようとされたのではないだろうか。彼らの理解があいまいであったり歪んでいたら、福音宣教すら、聞く人々に悪影響を与えかねないからである。
しかし受難ということばに動揺したペテロは、主をいさめ始める。恐らく彼とすれば、主を叱咤激励しようとしたのかもしれない。自分のイメージしていたキリストとは、ふさわしくなかったからであろう。けれども主はそういうペテロを神よりも人のことを思うサタンのことばといわれた。私たちも、信仰を告白しつつサタンのことばを語る余地が大いにあることを覚え、へりくだり悔い改める必要がある。
世には救世主とかつて呼ばれた人物がいた。彼らは人気があったかもしれないが、世を救うことはなかった。神の救いの計画はあくまで十字架と復活による救いである。その正しいキリストの理解をペテロにも与えるため、主はペテロをあえて厳しく叱られたのであろう。

[419] 2019/1/13 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/05/14(Tue) 00:40
マタイ16:13〜20 「生ける神の御子キリスト」

私たちは他人に影響されやすい者だが、信仰についてはどうだろうか。今日の箇所で重要な告白がペテロの口から出るが、その告白は、ピリポ・カイザリヤでの主イエスからの問いによってなされた。ここは、弟子たちを召し、これまでともに歩み、ご自分のことばとわざに触れさせてきたガリラヤ湖を見渡せる場所であり、同時に偶像礼拝盛んな地だった。
旧約聖書では王、預言者、祭司が任命される時に油が注がれる。キリストとは油注がれた者という意味であり、ペテロは主イエスをそのように告白した。しかもそれは、ペテロ自身の知恵によるのではない。あくまで神のあわれみ、恵みによって示された、死の力にさえも勝利する真理なのである。この告白こそ教会の礎の岩であろう。ペテロ自身、あるいは私たちも肉の弱さを持つ人間である。しかし神による礎に基を置くとき、決して揺るがされることはない。
教会は主から鍵をいただいた。世の人々に神の和解の福音を伝え続ける大きな責任である。教会創立30周年の今年、主への信仰告白を基として、御国の福音を証していこう。

[418] 2019/1/6 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/05/14(Tue) 00:39
マタイ16:1〜12 タイトル「恵みを覚えながら」

多くの人は新年を迎え、初詣のあとおみくじなどを引き未来への安心を手に入れようとする。しかし私たちは神のみこころを求めたい。今日の箇所でパリサイ人とサドカイ人が出てくるが、彼らは聖書に対する態度も外国人に対する態度も全く正反対で、普段は敵対している関係だが、主イエスに敵対するために手を組んで、主にしるしを求めてやってきた。
主はその要求に対してにべもなく断ったように見える。マタイ4章で荒野の誘惑をしたサタンにも当てはめて使われていた「こころみる」と言う態度で主に向かいあったのである。その悪意によって、見えているはずなのに神の力も恵みも見ようとしない頑なさを、がっかりされたのではないだろうか。
そうした間違いは、主のすぐそばにいた弟子たちも例外ではない。主の警告について的外れな議論をはじめ、たしなめられる弟子たち。私たちも彼らを笑うことはできない。櫛形キリスト教会は30周年を迎える。大事な事は、これまでの主の恵みとわざとを心に深く刻み覚えている事。そうしてこそ未来を平安に歩むことができるのである。

[417] 2018/12/30 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/05/14(Tue) 00:38
マタイ15:29〜39 タイトル「思いも及ばないところへ」

よく似た展開と話が14章にも登場していた。また同じような話かと読んでしまいがちだが、あえて記録されている意味を考えたい。
まず前半のいやしの部分だが、場所はマルコの並行箇所をみると主が今おられるのはデカポリス地方であり、異邦人の地である。そこで主はみことばを語られ、そこに集まってきた人々をいやされた。5章からの山上の説教と同じ展開を思い起こすと、ユダヤ人に注がれる同じ恵みが異邦人に注がれることに気づくのである。
続く4千人の給食の奇跡も、主が彼らをまずあわれみ、詳細は違っても、ほぼ同じ豊かな養いの奇跡を異邦人に向けてなさっておられる。弟子たちは前回に比べ、冷淡で配慮が欠けているにも関わらず。つまり、人が思わない範囲にまで、主の恵みは余りあるほど大きい。ユダヤ人に対するのに勝るとも劣らない豊かさで注がれるのである。ユダヤ人らは自分自身をきよいとしたが、主の恵みはユダヤ人であろうが異邦人であろうが、必死にパンくずを求める信仰を持つ者に注がれる。私たちは主の恵みが自分にさえ及び、また思わぬ人にさえ注がれることを憶え、今年の感謝と来年の祝福を祈ろう。

[416] 2018/12/23 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/05/14(Tue) 00:36
マタイ15:21〜28 タイトル「子犬と呼ばれても」

2018年を振り返り、どんなことを思うだろうか。中には神の沈黙に「なぜ」と思う事もあったかも知れない。
カナン人が住むツロとシドンの地は、ユダヤ人から見れば異教を信じる汚れた異邦人の地である。主がそこに行かれたとき、そこに娘の苦しみを我がことのようにして、いやしを必死に求める母親がいた。
ところが彼女に対して主は無言を貫かれる。いずれにしても対応を求める弟子たちに向かっても主は「イスラエル以外に遣わされていない」と言われた。さらに必死にいやしを願う母親に向かって主は、中東の地方ではさげすみの対象である子犬と呼び、イスラエル以外への救いの恵みを拒まれたように見える。
しかしなお自らを低くし、主の恵みの大きさを確信して訴える彼女の信仰を、主は「りっぱだ」と称賛された。聖餐式において私たちもパンのかけらを食するが、そこに大きな恵みがある事をおぼえたい。また、娘への愛ゆえに犬と呼ばれても構わないという彼女の姿から、人への愛ゆえに神のあり方を捨てた主のクリスマスの恵みを心にとめよう。神の沈黙と思える中にも、この愛を見失わずにいたいと願う。

[415] 2018/12/16 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2019/05/14(Tue) 00:35
マタイ15:1〜20 タイトル「私たちを汚すもの・きよめるもの」

パリサイ人と律法学者は、主の弟子たちが手を洗わないで食事をすることに驚き、主を非難した。異邦人から支配されるトラウマから律法の遵守を徹底しようとした彼らには考えられないことだったのである。しかしそこに歪みが生じ、神の本来のみことばよりも、自分たちの言い伝えや伝統によって立つ間違いを犯していた。食事の前の手洗いも表面的なもので、それによって人を裁く理由にし、回りを非難していたのである。
しかし主は、父母を敬えという主のことばを、神へのささげ物にすれば結果的に無にしてしまうような彼らの姿を逆に指摘し、神を愛しみことばに従うという姿から遠く離れていることを警告する。私たちは外から汚れが入ってきて汚れるのではない。私たちの内側の心がすでに罪に汚れているものなのである。それどころかその汚れは私たちの口から出て回りをも汚してしまう者である事を自覚しよう。
しかしクリスマスは、その汚れのど真ん中に主がおいでくださった出来事である。その汚れを自ら引き受け、私たちをきよめるために。その主に従う私たちも、御姿に倣うことができるようにと願う。

[414] イースターです 投稿者:マタイ 投稿日:2019/04/16(Tue) 23:52
ホームページの更新を楽しみにしています。

[413] 2018/12/9 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2018/12/13(Thu) 19:28
マタイ14:22〜36  タイトル「いやし主キリスト」

 主はヨハネの死の後、大人数の人々の必要に答え、その群衆を解散させておられた。さぞかし疲れていたにちがいない。そんな主は、一人父なる神との交わりの場へと向かう。主にとって、父に愛され受け入れられ喜ばれる交わりは文字通りいやしの機会であっただろう。
 そんな主は湖上でこぎあぐねる弟子たちの舟に歩いて近づいてこられた。その姿に驚き恐れる弟子たちに主は、「エゴー・エイミ」と旧約聖書での主なる神の名を口にされて「恐れることはない」と言われる。それは、直前の、主にいやしをもたらした父なる神との交わりに、弟子たちをも招こうとされていたのではないだろうか。そのようにして主は私たちをいやそうとされるのである。
 ペテロは主に「来いとお命じてください」と口にする。あなたの命令には力がある、との信仰告白とも言えるであろう。そしてその信仰によってペテロは主の力を体験するのである。風を見て恐くなり溺れかけたときも、主はペテロの小さな信仰を認めてくださり、その手を握り安全平安な場へと導いてくださった。共にいる、恐れるなとは、クリスマスのメッセージでもある。この真のいやしを証していこう。

[412] 2018/12/2 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2018/12/13(Thu) 19:26
マタイ14:13〜21  タイトル「主のもとに満たしあり」

 アドベント(降誕節)に入った。主の御降誕を待ち望むにふさわしい態度で過ごしたい。主はバプテスマのヨハネの処刑の報告を聞き、祈りのため寂しい所へと行かれる。主の痛みを感じるところだが、しかし病気を抱えた人々が主を探しついてこようとする姿を深くあわれみ、いやしをなさる。御自身が受けた傷にも関わらずあわれみを注がれる主の深い愛を憶えたい。
 日が暮れたとき、弟子たちは群衆を解散させるように進言する。それは彼らなりの合理的な親切心だっただろう。ところが主はあなたがたで彼らに食事をさせよと言われた。そして弟子たちは途端に現実の乏しさに直面し、何もできない、と立ちすくむのである。しかし主はそれでも、今ある物を持って来るようにと言われた。弟子たちは、主から不思議とあふれるパンを受け取り、人々に届ければよかったのである。私たちもあまりの欠乏に呆然とすることがある。しかし、主の奇跡を経験したいと思う。
 パン裂きは最後の晩餐を連想させる。痛み悲しみを経て私たちを救う主のわざを、このクリスマス、人々に証できたら幸いである。

[411] 2018/11/25 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2018/12/13(Thu) 19:18
マタイ14:1〜12  タイトル「真の王はだれか」

 安土桃山時代のキリシタンが描いた信仰画が発見された。キリスト教が伝えられた初期のころ、やがて迫害が起こってくる中描かれた絵には、歴史を真に支配される主への信仰が見て取れて印象深い。
 当時ガリラヤ地方の国主であったヘロデは、主イエスの噂を聞いて、バプテスマのヨハネの再来と恐れる。彼は植民地支配をしていたローマ帝国と民衆の間で、周りからの評価を恐れる人間であり、自らの不道徳を批判するヨハネを牢に捕らえていたのだった。
 彼の誕生日を祝う宴が開かれたとき、妻の娘の踊りにほうびをやろうと、なんでも、たとえ自分の国の半分でもやろうと誓う。すると彼女は、母と共謀してヨハネの処刑を求めた。正しさなのか、回りからの評価なのか、面目なのか、何を恐れるべきなのか何事も中途半端なヘロデは、結局ヨハネを処刑してしまう。その結果彼が得た物は、事実ではないことにも恐れ惑う、消えない不安だった。
 私たちも神の支配に背を向け、自分の物、自分の事、と神を閉め出し、自らを王としていないだろうか。そこには恐れなくても良いものへの恐れしかない。真に恐れるべき方のみを恐れる信仰を持とう。

[410] 2018/11/18 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2018/12/13(Thu) 19:16
マタイ13:53〜58  タイトル「天の御国の及ぶ所」

 「ふるさと」が持つイメージは、郷愁やなつかしさではないだろうか。主イエスもベツレヘムでお生まれになった後、30歳までナザレで過ごされた。まことの人としてこの世に来られた主は、周りの子どもたちと変わらぬ日常を送っていたにちがいない。
 その主がナザレで天の御国の福音を教えられると、人々はたいへん驚いた。しかし、その驚きはあくまで教えにではなく、昔からよく知っているイエスという人についてであった。また、家族も詳しく記されているように、地縁血縁の濃い地域にあって、彼らは、主のみことばを神のことばとして受け入れられず、イエスご自身につまずく。彼らの問題は、日常の事がらと、霊的な事がらの分離ではなかっただろうか。霊的な事がらは、専門教育を受けなければ扱えないという誤解である。しかし主は教会だけの主ではない。私たちの日常の隅々にも御国の支配を及ばせて下さる方である。そんな恵みに気づきたい。
 人間の不信仰が、全能の主のみわざをとどめうるということにくれぐれも気をつけなければならない。主はあらゆる所に祝福を注ごうとされる。子どもたちの祝福を祈るときもそのことを憶えよう。

[409] 2018/11/11 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2018/12/13(Thu) 19:14
マタイ13:44〜52  タイトル「天の御国を知る特権」

 マタイ13章に記される天の御国についてのたとえの最後の部分である。まず主は宝の埋まった畑と、貴重な真珠を買い取る商人の話をされた。畑に財宝を偶然見つけてしまう人も、熱心に探し求めてようやく真珠を見つけた人も、いずれにしても自分の財産を全てかけても手に入れようとするにちがいない。私たちも、見つけた経緯はどうあれ、人の支配にはない天の御国に生きる恵みは、それと同じくらいの喜びをもたらすものなのである。
 さらに主は天の御国を地引き網にたとえられた。あらゆる種類の魚がその網にかかり、引き寄せられる。けれども引き上げられるとより分けられるのである。神の裁きもそうである。しかし、私たちはその裁きを早まってはならない。あくまでも裁くのは神であり、神の支配を喜んで受け入れる幸いのほうを選び取りたいものである。
 御国の福音を聞かされ悟った者は、世のどんな知者よりも、天の御国の専門家、学者である。その恵みを、あらゆる形で、私たちは強いられてではなく、自ら喜んで人々に取り次ぐ者とさせていただきたい。

[408] 2018/11/4 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2018/12/13(Thu) 19:13
マタイ13:31〜35  タイトル「今見えないものを見る信仰」

 キリスト教の宣教が、恐ろしい伝染病にたとえられたことがあった。外部から見て脅威に感じる程、キリスト教の広がりはとてつもないものだったのである。天の御国のたとえを語られていた主は、からしだねとパン種のたとえをも語られた。天の御国とは、死んでから行く場所ではなく、神が王として支配する場、状況のことである。
 では、その天の御国がからしだねやパン種にどうたとえられるのだろうか。それは、人の目から見て取るに足りないようなちいさなもの、わずかなものが、私たちの想像をはるかに超えた成長、広がりを見せるということではないだろうか。事実、主の弟子たった12人から、世界の1/3に主の弟子は増えたのである。また、私たちも日を追うごとに信仰の成長があるだろう。主は私たちの努力や行いによらず、神の支配を広く大きくしてくださるのである。
 とはいえ私たちは、信仰をもって種を蒔き、パン種を粉にまぜ続けるべきである。御国の広がりの敵はサタンではなく、不信仰である。全てをたとえで語られ、見えないものを信じるよう導かれた主のみことばを信じ、天の御国の広がりを期待し信じる私たちであるように。

[407] 2018/10/28 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2018/12/13(Thu) 19:11
マタイ13:24〜30、36〜43  タイトル「収穫の時期になったら」

 毒麦は、有用の麦と初期の頃見分けづらく、健康被害ももたらす可能性があるという。そんな毒麦を、敵に畑に蒔かれてしまった人を、主は天の御国のたとえとされた。教会も主の支配のもとにあるはずなのに、間違いや問題を内包しているのはなぜか、と問われることがある。ある人はその問から、神ご自身を否定してしまうこともあるだろう。
 けれども、良いものと悪いものとは、非常によく似ているということも事実である。その見分けは難しく、しばしば間違えてしまう。だから、悪と聞くと私たちは、すぐに何とかしなければならないと思うが、その判断が間違っていたり、良いものまで除いてしまうことにはならないだろうか。だから有限の私たちには、謙遜が求められるのである。主は良い麦をこの上なく大事に思い、忍耐されるのだから。
 とはいえ、人をつまずかせ、不法を行う悪は永遠にそのままにされるのではなく、主の目から必ず裁かれる時がある。主の裁きは、良い麦を大事に思えばこそ真剣である。私たちは最後まで守られ、やがて太陽のように輝かせていただける報いを憶え、へりくだり歩もう。

[406] 2018/10/14 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2018/12/13(Thu) 19:10
マタイ13:1〜23  タイトル「種のたとえ」

 主イエスは、人々の生活に密着し、だれにでも身近に感じられるような、たとえ話をよくなさった。中でも有名な種のたとえである。パレスチナ地方での種蒔きは、袋に大量に入った種を無造作に蒔く方法であったことに注意すれば、特段私たちにとっても取り立てて難しい話ではないだろう。農作物が蒔かれた土地の状態によって、成長や収穫に違いがあることは、だれでも経験的に知っている事である。
 しかし、たとえ話で主が語られ、耳のある者は聞けとおっしゃったのは、話された事に、さらに深い意図があるということである。主イエスは、主のみことばを、さらに深く知りたいと願い、聞く姿勢を喜ばれ、悟る事を期待しておられるのである。固く、浅く、あるいは様々なものに邪魔される心では実を結ぶことはできない。
 良い地とは、砕かれた心であろう。何かを行うこと以前に、聞いて悟る事が求められている。そこでのみことばの種は、大収穫を生むことになる。私たち自身のみことばの聞き方に注意すると共に、伝道がなかなかうまくいかないと倦み疲れてしまうことがあっても、みことばの持つ生命力に期待し、蒔き続けていこう。

[405] 2018/10/7 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2018/12/13(Thu) 19:09
マタイ12:46〜50  タイトル「聖餐を中心として」

 多くの人にとって、最も重要な人間関係はと問われたら、家族と答えるのではないだろうか。しかし主イエスは、母マリヤや弟たちに呼ばれたとき、冷たく見える反応をされた。
 しかし、彼らが主イエスを外に呼び出そうとしたのは、「悪霊の力によって」と噂されていたからであろう。家族は親しく深い関係である分、しばしば互いに自分の理想を押しつけ合ったり、他人との間では生まれないようなストレスがないだろうか。
 主イエスの問いは、私たちに改めて家族とはと考えさせる。主イエスを中心にし、自らの欠点をへりくだって認め、しかも神の愛によって自らの価値を認め、赦されたように赦しあうことである。理想の家族も人間関係も、初めからすぐにそこにあるものではない。イエス・キリストの十字架を結び目に、築き上げられていくものであろう。
 十字架にかかられ、私たちの罪を負っておられる時、主は母と弟子のヨハネとの新しい親子関係へと導かれた。十字架を真ん中にした人間関係、家族関係こそ、ふさわしい関係なのである。聖餐式にあたって、十字架のあがないを深く憶える時としよう。

[404] 2018/9/23 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2018/12/13(Thu) 19:08
マタイ12:38〜45  タイトル「しるしを欲しがる人たち」

 パリサイ人らからしるしを求められたとき、主イエスはそれを非難し、ヨナのしるし以外にしるしは与えられないと語られた。まずしるしは与えられなかったのかというと、そうではない。旧約聖書でも、そして主御自身も、様々なしるしを行っておられた。問題は、それを受け取る側であって、何をしてもしるしと受け取らなければ、しるしは与えられないのと同じである。しかし、十字架と復活こそ、何よりもメシアのしるしである。私たちもそこに目を留める者でありたい。目に見えるしるしよりも、ヨナのさばきの宣告を聞いて悔い改めたニネベの人々のように、私たちはみことばや知恵に対して謙遜であるだろうか。あるいははるか遠くからソロモンに与えられた神の知恵を聞きにやってきたシェバの女王のように、神の知恵に熱心であるだろうかと問われる。
 汚れた霊を追い出していただいたとしても、そこを真の支配者不在のままにしておけば、また再び、なお悪い状態になる。中途半端は様々な問題の原因となる。真の支配者として、いつも三位一体の神に心の王座についていただけるよう願おう。

[403] 2018/9/16 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2018/12/13(Thu) 19:06
マタイ12:22〜37  タイトル「赦されない罪とは」

 主イエスが言われた、今の世どころか後の世でも赦されない罪とはどんなものだろうか。主とパリサイ人との論争があった後、主は悪霊につかれた一人の目と口の不自由な人をいやし解放された。悪霊は、人から真の自由を奪おうとする存在である。主は人をそこから解放されたのだった。しかしパリサイ人は、プライド故か、主のわざを悪霊のかしらであるベルゼブルのものとしてしまう。
 主はそれに対し、仲間割れで国は立ちゆかないことなどの例をあげ、ご自分が神の御霊によってわざをなしていると証言された。それは、すでに悪霊に対する神の圧倒的な勝利を確定させるものである。だから私たちは、様々なことに恐れず迷わず、主の勝利を確信すべきであろう。
 そして、人の全ての罪は赦されるが、唯一、人を罪の悔い改めと救いの確信に導く聖霊への冒涜は赦されないと主は言われた。自ら神の愛を拒むものであるがゆえに、赦しの道を失わせるものだからである。だから私たちは、あらゆることばに注意を払い、聖霊を冒涜ではなく賛美し、隣人を励まし思いやる言葉を発する者とさせられたい。

[402] 2018/9/9 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2018/12/13(Thu) 19:05
マタイ12:15〜21  タイトル「あわれみに満ちた王」

 四つある福音書のうち、マタイの福音書は、キリストを旧約聖書に預言された王として書き記している。この箇所もイザヤ書を引用しながらキリストを書き表そうとする箇所である。
 安息日についての論争があり、パリサイ人は主イエスを滅ぼす計画を立てた。それを知った主は、その場を立ち去り、ついて来た人々をみないやし、しかもその事を黙っているようにと語る。この事は一見不可解なように見えないだろうか。
 しかしマタイは、それはイザヤ預言の成就というのである。その預言の冒頭で、神のしもべとして選ばれたと記されているが、キリストを王であると証するマタイにしては矛盾とうつるかも知れない。しかし、キリストに倣うように、しもべの形を取るリーダーシップが近年注目されている。
 さらに異邦人への公義の宣言とはさばきの意味だが、彼は強権的にそれをするのではない。いたんだ葦、くすぶる燈心さえも大切に扱うようなあわれみをもってなされるというのである。異邦人のような私たちの望みと真の安息は、この主のもとにある。

[401] 2018/9/2 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2018/12/13(Thu) 19:03
マタイ12:1〜8  タイトル「安息日にすべきこと」

 前回から続く安息日問題について、パリサイ人たちがこれを機会に主イエスに対する敵意を決定的にする場面である。
 その安息日に、主が入られた会堂に片手が不自由な人がいた。パリサイ人は、安息日に彼をいやすことの是非を主に質問する。身体が不自由であっても、安息日毎に主の前に出ようとする礼拝者がいる。しかし、そうした信仰を脇に置いて、論争の種にしようとする彼らの姿勢を、私たちは注意しなければならないだろう。
 主イエスは彼らに、安息日であっても羊の命は助けるだろうと言われる。確かにそれが緊急の事案ならば、パリサイ人たちも認めていた。彼らは、それが安息日だから問題だというのである。しかし主は、その安息日に、彼との出会いを特別としてくださる。私たちも週ごとの礼拝は、一期一会の恵みがあることを憶えたい。
 さらに主は、安息日を「してはいけないこと」を守る日から、「良いことを」する日と宣言された。私たちのたましいは、ただ物理的な休息を得れば回復するのではない。神と人に仕える喜びによって力が満たされるのである。主のもとで、主に倣う安息を得よう。

[400] 2018/8/26 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2018/12/13(Thu) 19:01
マタイ12:1〜8  タイトル「まことの安息日」

 働きアリは、常に2割が休んでいるという。それによって群れは絶滅の危険を下げているらしい。私たちの社会も、そして個人も、本当の休息がなければ滅びに向かってしまわないだろうか。
 ユダヤ人にとって、安息日の戒めは独自の教えだった。ゆえに彼らの誇りとなり、その戒めを守ることが当然神の祝福を受ける手段とされ、熱心に多くの規定をつくりあげて戒めを守ろうとしたのである。そんな彼らは、主の弟子たちが麦穂を摘まんで食べる姿を指摘した。
 主イエスは、聖なるパンを空腹のために食べたダビデの故事と、宮仕えの祭司たちが安息日規定から解放されていることをあげ、決まり事を守ることにのみ熱心になっている彼らの姿勢を逆に指摘する。神のみこころは人のいのちに向けられており、律法を守り他者をさばくこと以上に、罪人が主のあわれみによって生かされる感謝から、互いにあわれみをもって生かしあうことこそに安息日の目的があるのだ。
 主イエスは、その安息日の規定も目的も定める権威者であられる。その主のもとに行き、主のなさったとおり、主のみことばどおりにするときに、私たちの本当の安息があるのである。

[399] 2018/8/19 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2018/12/13(Thu) 18:59
マタイ11:28〜30 「本当の安らぎのために」

 私たちの人生のなかで負う重荷とは、いったいなんだろうか。中には不要な重荷も自ら背負ってしまっていることはないだろうか。
 預言者たちが待ち望んだ救い主を目にする幸いにも関わらず、ガリラヤの人々は頑なであった。しかし、それこそ幼い者にこそ福音の恵みがあらわされるという神のみこころの現れだった。だとすれば、私たちは皆、重荷の元となる自らの知恵や賢さという誇りを捨てて、主イエスのもとに行かなければならないのではないだろうか。
 主イエスのくびきを負い、主から学ぶとは、具体的には主の柔和さと謙遜に倣うということだろう。柔和とは、単に優しいことではなく、神のみこころを受け入れ、喜ぶことである。家畜につける農工具であるくびきを、主と共に担うことは、自らの気ままな自由ではなく、謙遜にならい、傲慢な姿勢を一時停止することで与えられる休息を与えられるのである。
 自分にフィットした荷物は、実際よりも軽く感じるという。主が与えられるのもそうではないだろうか。生きるのにも死ぬのにも、主の御心にへりくだる平安を、私たちもいただいて歩みたい。

[398] 2018/8/12 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2018/12/13(Thu) 18:56
マタイ11:25〜27 「幼い者に」

 父よという呼びかけで始まる祈りかと思いきや、後半では人々に呼びかけていることばに変わる主のことばである。しかし、そもそも祈りと呼びかけのある招きは、明確に分離することができないし、さらに、冒頭の原文に「答えて」とあるように、旧約聖書に預言された救い主の力あるみわざを見、福音の教えを聞いてなお悔い改めないガリラヤ地方の町の人々の姿をご覧になっての、主の応答なのである。
 そして主は父なる神をほめたたえられた。人々が悔い改めない嘆きの直後に主への賛美とは違和感を感じるかも知れない。けれども主の賛美の根拠は、父の御心にかなかっていることが現実になっているということ、つまり天の御国の支配が現実になっていることへの賛美である。
 幼子は素直にみことばとわざを受け入れたが、知恵ある者は傲慢のゆえに拒んだのである。確かに自らの知恵に頼る者は相手を見下す傾向があるという。主に対する謙遜こそ、御子が父を知らせたいと思われる道なのではないだろうか。自らが知恵者と思いたい誘惑から解放され、主にあって愚かな者であることを告白する者となりたい。

[397] 2018/8/5 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2018/12/13(Thu) 18:55
マタイ11:20〜24「愛ゆえの嘆き」

 前回の箇所で主は、天の御国の一番小さい者でも、バプテスマのヨハネよりも偉大だと言われた。それは、福音は、その知識を持っているということより、信じて受け取る恵みこそ、素晴らしいものであるということであった。だからこそ、救い主を目の前にしてもなお、頑なになって悔い改めなかったことは、責められるべきことだと主は言われるのである。
 コラジンとベツサイダ、カペナウムはそれぞれ、ガリラヤ湖の周辺にある町である。ツロとシドン、ソドムは旧約聖書の中で罪深き異教の町だったが、それらよりも、救い主の力あるわざを見ながら悔い改めに向かわなかった先の町は、さばきの重さに関わってくる。ただ、救いを知らなかった方が良かった、という事はあり得ない。信じて与えられる恵みの大きさは圧倒的だからである。
 主が口にした「ああ」は、ギリシャ語ではうめきを表すことばである。主は自ら痛みを感じる程、コラジン、ベツサイダ、カペナウムの頑なさを、愛ゆえに嘆いておられる。私たちは差し出された救いを素直に受け取る者でありたい。聖餐式の恵みをそのように味わおう。

[396] 2018/7/29 投稿者:Mini caiaphas 投稿日:2018/09/16(Sun) 20:09

マタイ11:7〜19「何を見に行くのか」
 
 あなたがたは、なんのためにバプテスマのヨハネのところに行ったのか、と主は問われる。ヨハネのところに行ったのは、悔い改めのバプテスマを受けるためではなかっただろうか。それでは、私たちはなんのために礼拝に集うのだろうか。惰性や義理で、あるいは毒にも薬にもならないことのために集うのではないだろう。
 ヨハネは預言者であり、神の言葉を語るものだった。教会とは「みことばが語られ、聖礼典が正しく行われるところ」である。それが私たちを生かすものであると信頼すべきところなのである。これまでで最も優れた預言者といわれ、御国を指し示すヨハネよりも、実際に御国に入る者のほうが優れている。主イエスを通し、神を王として、神の支配の中で生きる幸いを確認しよう。
 天の御国に入ろうと今人々は殺到している。私たちも改めて、みことばをすでに受け止め、悔い改めに導かれたい。そして、裁きを聞いても、恵みを聞いても、いずれにしても批判する世に流されることがないように願う。主イエス・キリストを通して、預言者たちが待ち望んだ御国にあらわれる幸いを、改めて感謝しよう。

[395] 2018/7/22 投稿者:Mini caiaphas 投稿日:2018/09/16(Sun) 19:55

マタイ11:1〜6「確信に至る迷い」

 結婚生活と同じように、信仰生活においても、私たちは迷いや確信の揺らぎが起こりうるのではないだろうか。バプテスマのヨハネは、弟子たちを通じて主イエスに、来たるべき救い主なのか獄中から尋ねた。かつて悔い改めの招きをユダヤ全土に告げ、来たるべき救い主はこの方である、と主イエスを指して宣言し、バプテスマまで授けた彼である。そんなヨハネが、主イエスに対する信仰が揺らいでしまったような質問をするのはなぜかと思える。
 しかしヨハネはヘロデ王によって捕らえられ、獄中にあった。さらには、かつてヨハネが語っていた厳格な裁き主としてのキリストと、弟子たちから聞く主イエスとのイメージのズレを感じていたからかもしれない。私たちも現状の困難や、自分の中の救い主のイメージと違うと感じたとき、信仰の迷いを感じるのではないだろうか。
 対して主の、事実とみことばによる回答は、ヨハネの信仰に対する信頼、期待が感じられる。迷い、疑問を持つことは不信仰ではない。私たちはそれを主に投げかけて良いのである。主はそれを受け止め、私たちの問いを、より堅い信頼へと導いてくださるからである。

[394] 2018/7/8 投稿者:Mini caiaphas 投稿日:2018/07/08(Sun) 12:22

マタイ10:34〜42「真の平和をもたらす」

 一見、反平和を思わせるような主イエスの言葉である。聞く人につまずきをもたらす言葉に聞こえるせいか、「剣」を、「みことば」の比喩だと解釈する説も存在するくらいである。しかし、主は明らかに平和と対比させており、剣はそのままの意味で取るほうがよいだろう。むしろ考えるべきは「平和」の方ではないだろうか。私たちは、見せかけの平和を守るために恐怖や抑圧を感じることもある。しかし聖書のいう平和は、敵意のない和解がもたらされた状態のことである。それは十字架でしか実現できないであろう。
 最も近しい家族でも、福音がもたらされる時に、しばしば分裂や敵対さえも起こる。その時に、見せかけの平和を優先し、主イエスを追いやって良いだろうか。むしろ罪人ゆえに自ら愛することができない私たちは、私たちを愛してくださる主イエスを信じ、主を愛することから、初めて他者を愛することができるのではないだろうか。和解をもたらす十字架に伴う苦しみを、私たちも負わなければならない。
 弟子を受け入れる人への報いを、主は忘れない。私たちはキリストの大使である。堂々と主を証し、福音を伝えて行こう。

[393] 2018/7/1 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2018/07/07(Sat) 23:53
マタイ10:24〜33「恐れるべきものを恐れる」

福音宣教に遣わすにあたり、主イエスは、弟子はその師にまさらず、と言われた。12人達がつけあがらないように戒めたのだろうか。そうではなく、ヨハネ伝に同じことばが出てくる箇所を読むと、これは迫害のことだと分かる。つまり、弟子が受ける迫害は、主を越えないのである。
私たちが神に愛され、主イエスによって救われ、御霊が住んでくださるなら、私たちはその信仰を隠そうと思って隠せるものではない。だとしたら公に福音を証しなさい、と主は言われる。確かに私たちは、福音宣教に困難や迫害が伴うことを知っている。そして人間関係がこじれてしまうのを恐れてしまう。しかし、恐れは必ず相対的なものである。人間関係がこじれるのと、神との関係が壊れるのと、どちらが恐ろしいことか。雀の一羽さえ、私たちの髪の毛の数さえ心に留めて愛してくださる神との関係に優先するものがあるだろうか。
自分を愛すると言ってくれる人が、一方で誰の前でも自分を紹介しないとするなら、その愛には疑問符がつかざるをえないだろう。弱さに悔い改めと助けを祈りつつ、人々に主の愛を証する道を歩もう。

[392] 2018/6/24 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2018/06/30(Sat) 19:07
マタイ10:16〜23「賢く、すなおに」

 12弟子の派遣に際し、主イエスは宣教に伴う迫害について教えられた。まず主はこの派遣を、羊を狼の群れの真ん中に送り出すに似ていると述べられ、弟子の覚悟を促された。具体的には、宗教的な迫害、権力者による迫害、さらに家族から、すべての人から迫害である。なぜ主はそうされるのだろう。それは、その狼もまた、いやされ救われるべき羊だと主が見ておられるからである。傷つき倒れ、攻撃的になっているにすぎないからである。
 とはいえ弟子達は弱い羊である。主は彼らに、蛇と鳩になぞらえ、時、状況、必要等を鋭く悟る賢さと、主からのことばをまっすぐに伝える素直さを持てと言われた。そうするときに弟子たちもまた、狼が救いを求めている羊だと見る事ができるのではないだろうか。
 語るべきことばを与えてくださるのは御霊である。語る機会を与え、寄り添ってくださる主に平安をもって委ねよう。そして、すべてを自分の責任として背負い込まなくて良いのである。所詮私達が担うのは一部分であり完全ではない。しかし、再臨の主が最後はすべてを完成させてくださる。平安をもって主を証していこう。

[391] 2018/6/10 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2018/06/30(Sat) 19:05
マタイ10:5〜15「ただで受けたのだから」

 大切な福音宣教を弟子たちが担い行うにあたって、主イエスは細かく具体的な注意をされた。まず、イスラエル人へと限定される。これは、異邦人・サマリヤ人が救われなくてもいいということではない。主も彼らのところに行って、宣教をされている。ただ今は弟子たちにとって、まことの神を知っている相手への宣教が優先されるということだろう。また私たちも、会ったことのない遠くの誰かのこともさることながら、隣人に対する愛と救霊の思いを持つことも大事ではないだろうか。
 12弟子たちが語るべきメッセージも、行うべきわざも、彼ら自身から出たものではなく、主が与えてくださるものである。だからこれによって自分への報いを期待してはならない。旅行に必要な一切のものさえ、主がすべて備えてくださる事を信頼すべきなのである。
 宣教は一朝一夕で成果が出るようなものではないから、忍耐を持って取り組むべきだろう。けれども、御言葉を受け入れるかどうかの最終的な結果の責任は私たちではなく、主が引き受けてくださる。諦めないで取り組もう。派遣の主が、私達にもそうしてくださるように。

[390] 2018/6/3 投稿者:caiaphas@管理人 投稿日:2018/06/30(Sat) 19:04
マタイ10:1〜4「主に選ばれる弟子」

 どんなことでも、誰を選び、携わらせるかによって、結果等が大きく変わる事は言うまでもない。主イエスは群衆をあわれみ、悪霊からの解放といやしのために12人を選ばれた。おそらくイスラエルの12部族が由来であろう。イスラエルが神に選ばれたのは、強く大きかったからではなかった。むしろ最も小さかったからだった。その民が神の祝福を証するのである。だとすれば、選ばれた12弟子たちも、自らの弱さ小ささを通して、主のあわれみを証するのである。
 実際彼らはごくごく普通の人々であり、ほぼガリラヤの田舎出身で特別な人ではなかった。その上で、バラエティに富んだ人たちである。しかもローマのために働く取税人と、反ローマの熱心党員が選ばれている。主に選ばれなければ彼らの接点はなかったにちがいない。私たちも主に選ばれた者として同じではないだろうか。
 やがて主を裏切ることになるユダが含まれている事に主の計画の不思議さを憶える。しかしユダは自らの裏切りを主のせいにする事はできない。私たちは、主に選ばれた者として、へりくだりつつ喜んで主を証し、福音の慰めを人々に届ける者となりたい。